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川淵三郎

■川淵三郎(かわぶち さぶろう)

□肩書き
 サッカー選手(70年引退)
 初代Jリーグチェアマン
 日本サッカー協会会長

□所属
 古河電工(61年〜70年)※現役
 古河電工(70年〜75年)※コーチ・監督

□本名
 川淵三郎

□生年
 1936(昭和11)12.03(射手座)

□出身地
 大阪府高石市

□出身校
 大阪府高石町立高石小学校
 大阪府高石町立高石中学校
 大阪府立三国丘高校 
早稲田大学商学部卒業

□略歴(満年齢)
 61年(25歳)古河電工に入社。
 91年(55歳)初代Jリーグチェアマンに就任。
 02年(66歳)日本サッカー協会会長に就任。
 ※通算成績:
68試合10得点(JSL1部)
  26試合8得点(日本代表国際Aマッチ)
 ※主な出演:
  テレビ「すぽると!」「やべっちFC」
ラジオ「キャプテン川淵の行こうぜ!オレたちのニッポン」

□趣味
 読書 囲碁 オペラ ゴルフ

■川淵三郎

□幼少時代〜
・父親はインドネシアでサトウキビから航空燃料を作る仕事をしていた。
・3人兄弟の末っ子。
・父親は海外勤務だった。
・漁師町で育った。高師の浜でよく野球を相撲をして遊んだ。
 漁師の子の友人と一緒に伝馬船を漕いで遊んだ。
・小学校時代、大阪が空襲された時に防空壕に何度も入った。
・小学校時代、演劇部。
 NHKのラジオ放送劇に100回以上出演。本番前日に演技の猛特訓をした。
・中学時代、野球部。
・高校時代、サッカー部。ポジションはFW。
 本当はラグビーをやりたかったがラグビー部がなかったのでサッカー部に入った。
・高1の時、サッカー部の助っ人として参加した大会でいきなり試合に出場した。
サッカーに興味はなかったが四国に連れて行って貰える事に釣られて参加、
 サッカー部員の数が足りなかったので先輩に頼み込まれてそのままサッカー部に入った。
・高校時代、生まれて初めて録音された自分の声を聴いてショックを受けて演劇をやめた。
・2浪して早稲田大学に入学。
・大学時代、サッカー部。
 1年からレギュラー。大学2年の時に日本代表に選出された。

□私生活
・好物…おにぎり。そば。ステーキ。しゃぶしゃぶ。
・健康法…爪先立ち(毎日150回)。
・Jリーグ開幕の頃にストレスからくる顔面神経痛になった。
・馴染みの店では「うまいけど残しますよ」と最初に断って食べる量を控える。
・エージシュートを7回達成した事がある(最初は76歳で75=17.11現在)。
・老後は田舎で犬や猫に囲まれて暮らしたいと思っている。
・夜の会食後の2次会の誘いは全て断る。
・妻はあまりスポーツに興味がない。

■川淵三郎

□人間関係
・吉岡たすく…小学校時代に吉岡がたちあげた演劇部に所属。
 父親のような存在だった。
・康子…62年12月結婚。
・子供:
 長女。次女。

□エピソードなど
・大学卒業後、古河電工に入社(→91年退社)。
・東京五輪アルゼンチン戦でダイビングヘッドで同点ゴール、決勝点をアシスト。
・40歳の時、倒産しかけていた小さな商社に出向して再建に成功。
 その2年間で財務の事がよくわかったのでJリーグの経営に自信があった。
・日本代表監督を務めた。
・提出した意見書を再三却下されて日本サッカー協会強化部長を辞任。
・日本サッカーのプロ化を牽引。
・Jリーグチェアマン就任と同時に麻雀と宴席の2次会出席をやめた。
・日本サッカー協会最高顧問に就任(=12年)。
・日本バスケットボール協会改革のためのタスクフォースのチェアマンに就任(=15年)。
・日本バスケットボール協会会長(=15年)。

主要参考媒体
週刊現代 16年2月13日号
日刊スポーツ 17年11月7日号

川淵三郎 1936.12.03 サッカー選手
川淵三郎 1936.12.03 大阪府高石市出身
川淵三郎 1936.12.03 早稲田大学商学部卒業


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