■山田洋次(やまだ ようじ)
□肩書き
映画監督 脚本家
□生年
1931(昭和06)09.13(乙女座)
□出身地
大阪府豊中市→旧満州→山口県
□出身校
東京大学法学部
□略歴(満年齢)
69年(38歳)映画「男はつらいよ」監督。
77年(46歳)映画「幸福の黄色いハンカチ」監督。
93年(62歳)映画「学校」監督。
※他の主な監督作品:
映画「家族」「武士の一分」「家族はつらいよ」
※主な出演:
映画 「映画監督って何だ!」
テレビ「クローズアップ現代」「スタジオパークからこんにちは」「徹子の部屋」
□趣味
スキー
■山田洋次
□幼少時代〜
・父親は九州大学工学部卒業の技術者。
満鉄の設計技師→市役所→バス会社と転職。
蒸気機関車の設計をしていた。
実直で黙々と仕事をこなすタイプだった。
・毋親は満州・旅順で生まれた。
女学校を卒業するまで内地の土を踏んだことがなかった。
日本的な因習に染まらない開放的で楽天的な女性だった。
戦時中にもんぺをはかず、禁止されていたパーマをかけていた。
・兄(2歳年上)と弟がいる。
・3歳の頃、父親の転職でから旧満州(中国東北部)に引っ越した。
小3まで奉天、ハルビン、新京、奉天と移り住んだ。
・小学校時代、父親の影響で落語が大好きだった。
落語全集を暗記してクラスメイトの前で披露した。
・小学校時代、女性教師に初恋。
・小4の頃、父親の転勤で東京都大田区雪が谷大塚に引っ越した。
・小5の時、ジフテリアで入院。
戦時中だったのでなかなか血清が入手できなくて死にかけた。
・父親の転勤で大連(満州)で終戦を迎えた。
住んでいた社宅は八路軍に接収された。
引き揚げまで約1年間、古い学校の寮の約8畳の部屋で家族で暮らした。
引き揚げ直前の食生活は最低レベルだった(牛馬用の飼料を煮て食べた)。
47年3月に大連から引き揚げた。
・引き揚げ後、山口県の伯母宅に家族で寄宿。
・学費を払う為に中学時代から兄と一緒に日払いのアルバイト(肉体労働)をした。
文化祭や運動会を休んでアルバイトをした。
闇屋、農家の手伝い、空襲で破壊された工場の瓦礫の片付け、など。
年上のバイト仲間にハナ肇や渥美清のような人が実際にいた。
年上のバイト仲間に食事をおごられて酒を飲まされた。
・一浪して東京大学に進学。
・アルバイトで旅費を稼いだぎりぎりの予算で山口県から東京に行って大学を受験、
帰りは汽車の切符を買ったらお金がなくなって何も食べずに20時間以上汽車に乗った。
・大学に入った頃に両親が離婚した。
・大学時代、映画研究会。
・大学時代、家庭教師のアルバイト。
・大学時代、将来の進路に悩んであまり授業に出なかった。
成績は落第すれすれだった。
・大学時代、ヨーロッパ映画をたくさん観た。
ヴィスコンティ、フェリーニ、ルノワールが好きだった。
・松竹入社後に7月に追試を受けて9月に卒業した。
■山田洋次
□私生活
・好物…アジフライ。ポテトコロッケ。
・子供の頃に魚を食べなかったので大人になってもなかなか魚の味が判らなかった。
・ヘビースモーカーだった。
・住んでいる所…東京都世田谷区成城(=99.04現在)。
・社会人1年生時代に友人と一緒に原宿(竹下通り)の部屋に住んでいた。
・新婚当時に世田谷区祖師谷の団地に住んでいた。
・映画のスタッフと一緒によく群馬県片品村にスキーに行った。
■山田洋次
□人間関係
・川村元気(映画プロデューサー)…友人。よく一緒に食事する。
・橋爪功、吉行和子、西村雅彦、夏川結衣、林家正蔵、中嶋朋子、妻夫木聡、蒼井優
…映画「家族はつらいよ」シリーズに出演。
・渥美清…映画「男はつらいよ」シリーズに主演。※96年他界
・倍賞千恵子、前田吟、太宰久雄、三崎千恵子、笠智衆、吉岡秀隆、後藤久美子
…映画「男はつらいよ」シリーズに出演。
・浅丘ルリ子…映画「男はつらいよ」シリーズにマドンナとして4回出演。
・高倉健…映画「幸福の黄色いハンカチ」に主演。※14年他界
・ハナ肇…映画「馬鹿シリーズ」に主演。※93年他界
・檀れい…映画「武士の一分」に出演。
山田夫妻が檀にプレゼントしたモンブランのボールペンを愛用。
・大島渚…松竹の同期。※13年他界
・黒澤明…時々黒澤の自宅に遊びに行って映画の話をした。
黒澤が書き終えたばかりの自筆の脚本を読ませて貰った。※98年他界
・川島雄三、渋谷実、野村芳太郎…松竹の先輩(山田が助監督を務めた)。
・黒谷友香…映画「男はつらいよ」シリーズが大好き(DVDを全巻まとめ買い)。
・小出恵介、井ノ原快彦、博多華丸、パンチ佐藤、瀬戸内寂聴
…映画「男はつらいよ」シリーズのファン。
・上沼恵美子…山田洋次の大ファン。
・よし恵…56年結婚。大学時代に知り合った。※08年他界?
・子供:
長女。
次女…山田亜樹。TBSディレクター。
■山田洋次
□エピソードなど
・就職活動で学校の成績を重視しないマスコミを片っ端から受けた。
・松竹大船撮影所に補欠合格で入社(=54年)。
・入社当初はシナリオライターを志していた。
・寅さんの啖呵売の台詞はもともと渥美が暗記していたのを脚本にした。
現場で「もう少し長く」と渥美に注文するといくらでも長くしてくれた。
・映画「男はつらいよ」は第50作まで構想していた。
・映画「男はつらいよ」シリーズは世界一の長編シリーズとしてギネス認定された。
・映画「釣りバカ日誌」シリーズの脚本を担当。
・寅さん記念館名誉館長に就任(=98年)。
・横綱審議委員に就任(=04年)。
・日本映画監督協会理事に就任。
主要参考媒体
テレビタレント人名事典(日外アソシエーツ、第5版)
週刊文春 99年4月29日号
対談山田洋次1 人生はつらいか 99年7月25日発行
対談山田洋次2 映画は面白いか 99年8月25日発行
LIBRA 12年1月号
女性自身 15年10月6日号
山田洋次 1931.09.13 映画監督
山田洋次 1931.09.13 幸福の黄色いハンカチ
山田洋次 1931.09.13 男はつらいよシリーズ