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北の富士勝昭

■北の富士勝昭(きたのふじ かつあき)

□肩書き
 大相撲力士(第52代横綱)※74年引退
 大相撲年寄
 大相撲解説者

□年寄名
 井筒勝昭→九重勝昭→陣幕克昭

□本名
 竹澤勝昭

□生年
 1942(昭和17)03.28(牡羊座/O型)

□没年
 2024(令和06)11.12(享年82)

□出身地
 北海道旭川市

□略歴(満年齢)
 57年(15歳)1月場所で初土俵。
 66年(24歳)7月場所後に大関に昇進。
 70年(28歳)1月場所後に第52代横綱に昇進。
 ※通算成績:
  786勝427敗69休、優勝10回、
  殊勲賞2回、敢闘賞1回、技能賞3回、金星1個
 ※主な出演:
  テレビ「新・クイズ日本人の質問」「サンデーモーニング」「徹子の部屋」

□趣味
 俳句 ジョギング ゴルフ

□サイズ
 185㎝135㎏(現役時代)

■北の富士勝昭

□幼少時代〜
・父親は料理店経営。
・7人きょうだいの次男。
・小2の時、留萌に引っ越した。
・中3の時、旭川に引っ越した。
・運動神経抜群だった。
・小学校時代から野球をやっていた。
 ノーコンの速球投手でエースにはなれなかった。
 名門・北海高校に野球で勧誘された。

□私生活
・得意料理…カレー。
・健康法…股割り。ストレッチ。
・心臓の手術を受けた(=16年)。
・横綱在位中に多くの病気・怪我に見舞われた。
 高血圧症。慢性腸炎。不眠症。
 右手中指脱臼。左肋骨骨折。右膝靭帯損傷。
・枕が変わると熟睡できない。
・調子が悪いとゴルフを途中でやめて帰る。
・若い頃に「夜の帝王」「プレーボーイ横綱」と呼ばれた。
・父親は101歳で他界。

■北の富士勝昭

□人間関係
・玉の海…盟友。ライバル。横綱に同時昇進。※71年他界(享年27)
・稀勢の里寛…応援していた力士。一緒に食事。
 自称「稀勢の里関を横綱にする会」を作った。
・松山恵子…好きな歌手(大ファン)。
 日劇でワンマンショーをひとりで見に行った。
・欧陽菲菲…憧れている芸能人。
 菲菲目当てに台湾まで行った事がある。
・千代の富士貢、北勝海信芳…弟子。
 50歳で師匠を引退して千代の富士が九重部屋を継承。
・和島香太郎…映画監督。甥。
 
□エピソードなど
・7㎏体重不足で新弟子検査不合格も当時の自費養成制度で拾われた。
・細身で前に出る相撲から「香車」と呼ばれた。
・体重が100㎏を超えると次第に勝てるようになった。
・得意技…突っ張り、左四つ、寄り、上手投げ、外掛け。
・左四つから一気に出る速攻相撲が得意だった。
・新入幕で13勝2敗の最多勝記録を樹立。
・大関在任中に発売した楽曲「ネオン無情」が50万枚のヒット(=67年)。
 歌番組「夜のヒットスタジオ」出演。
 キャバレーで15分のステージで2曲歌うと相撲を取るよりギャラが良かった。
・外掛けを返されて先に右手をついた一番が物議を醸した(=72年1月場所貴ノ花戦)。
 行事軍配は貴ノ花、物言いでかばい手とされて北の富士の勝ち。
・途中休場した5月場所後にハワイでサーフィンをして厳重注意を受けた(=72年)。
・断髪後に白のタキシード姿で土俵で「ネオン無情」を歌った。
・場所中に「23:00門限(罰金5000円)」を設定するが、
 親方である自分自身が連日守れなかった。
・高砂一門の理事候補を外れて相撲協会を退職(=98年)。
・NHK大相撲中継の専属解説者。
 各場所の初日・千秋楽を中心に担当。
 向正面の舞の海としばしば異なる意見を戦わせた。
・中日スポーツに「北の富士コラム はやわざ御免」を連載。

主要参考媒体
日刊スポーツ 24年11月22日号

北の富士勝昭 1942.03.28 – 2024.11.12(享年82)大相撲力士
北の富士勝昭 1942.03.28 – 2024.11.12(享年82)北海道旭川市出身

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